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京都から女性・経済・文化を考える

講演録


第2部

第2部 対談

「京都が起こす文化発信 琳派400年」
山本壯太氏東野珠実氏

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 第2部の会場は「龍華殿」(重要文化財)へ移動した。雲龍院の創建は1372年、真言宗泉涌寺の塔頭、別格本山で、龍華殿は同院の本堂。ご本尊は薬師如来・日光菩薩・月光菩薩の薬師三尊で、真言宗の宗祖・弘法大師のご尊像などもまつられている。皇室にゆかりの深いお寺で、龍華殿正面の勅使門は皇族専門の出入り口だ。
 まずは市橋朋幸住職から雲龍院についてご説明をいただき、気持ちもひとつに。そこへ平安時代の装束(株式会社井筒協力)に身をまとった東野珠実さんが登場し、象牙の笙を使って「平調調子(ひょうじょうのちょうし)」(雅楽古典曲より)を演奏する。動くときの衣ずれの音がなんとも雅だ。その後、ご本尊の前で山本壯太さんとの対談が始まった。日暮れとともにライトアップされた庭をみながら、最後は東野さんが作曲した「KASANE」を聴きながら、京都の黄昏時を共有した。


100年毎に巨星が現れる「琳派」
山本:こうして薬師如来の御前で笙(しょう)の音色を聞いていると、まるで平安の時代のようです。東野さん、京都はお好きですか。
東野:はい、大好きです。東野という姓は元々、滋賀県にルーツがある母方の姓です。父方の祖先も昔は京都、大阪に暮らしていたようです。
山本:京都は来年、琳派400年を迎えます。琳派でお好きな作家はいますか。
東野:ヨーロッパやアメリカの大きな美術館には琳派の作品がたくさん展示されていて、俵屋宗達や尾形光琳をよく見かけます。こどものころから京都へ足繁く通い、たくさんのお寺で琳派の作品を拝見しました。そんな中では、酒井抱一(さかいほういつ)が好きな作家ですね。
山本:琳派について、ざっとお話をさせていただきます。1615年、元和偃武(げんなえんぶ)の年、徳川家康が本阿弥光悦に、京都の洛北、鷹峯(たかがみね)に土地を与えました。光悦はそこをプロデュースし、様々な職人さんを集めて芸術村を作った。これが琳派のきっかけとなります。
 琳派の始祖は、本阿弥光悦と俵屋宗達です。宗達は天才的なスターで、数多くの作品を残しましたが、生没年は不詳で、その人生は謎に包まれています。代表作は建仁寺にある「風神雷神図屏風」でしょう。琳派の最大の特徴は狩野派のような‘流派’ではないことで、血族で派をつないでいったわけではありません。宗達のあとを継いだのは、100年後に登場する尾形光琳で、代表作は「紅白梅図屏風」です。
 このように100年に1度ぐらい、巨星が現れるのが琳派の特徴です。光琳の100年後には酒井抱一が現れました。姫路の酒井家の次男坊ですが、江戸で活躍したので江戸琳派と言われます。金沢では俵屋宗雪が活躍しました。来年は琳派400年として、京都や東京、金沢で盛大に琳派を取り上げるのではないかと思います。

町衆が取り入れていった公家文化
東野:酒井抱一は、京都に強い憧れを抱いたのでしょうね。私は元々クラシック音楽の出身ですが、音楽家として雅楽に強い憧れをもっています。また、同じ江戸を活動の場とするということで酒井抱一に共感を覚えるのかもしれません。京都への強い憧れがアートを創造させる。直接教えを受けられなくても、密かに尊敬し学ぶ、つまり「私淑」して継いでいくことで琳派が継続してきたことに感慨を覚えます。
山本:琳派が生まれた頃、徳川幕府はすでに江戸に移り、政治の中枢は京都からなくなりました。徳川幕府は貴族をコントロールし、貴族は貧しくなっていきます。そんな中で京都の町衆たちが経済的にも文化的にも力を持ち始めました。貴族文化が町衆に滲みでていき、町衆が受け入れ、咀嚼をしていった時代に、琳派も生まれ育っています。
 勇壮な絵を描いたことで有名な宗達も、「源氏物語関屋澪標図屏風」を描いています。公家文化の根底には‘もののあわれ’があり、それを京都の四季や自然で表現します。琳派の作家たちが植物を多く描いたのは、平安の王朝文化に大変憧れていたからでしょうね。宗達は「舞楽図屏風」で、雅楽、舞楽を金の屏風の上に描きました。きっと雅楽や舞楽、お能をよく見ていたのだと思います。

「重ねる」文化の柔らかさとおおらかさ
東野:「風神雷神図」にも、雅楽の左方右方に表されるような象徴性が重なりますね。ところで、今日、私が着ているのは袿(うちぎ)で、平安公家装束の一つです。衣を重ねていく文化の象徴としてご覧いただいています。また、いろいろな憧れが「重なっていく」象徴でもあると思っています。
 さらに、今日の装束は、昨今、井筒装束さんが平安期からの織りが江戸期まで続いていた技法を復刻したものです。糸に撚りをかけずに織っているため、角度を変えたり動いたりすると、微妙に色が違って見えます。織物美術家の龍村光峯(たつむらこうほう)先生に教えていただいたのですが、お蚕さんの吐く糸は三角形の立体構造のため、プリズム効果が生まれ、光を分散し、色が多様に変化するのだそうです。その上で、装束の色を重ねていくことで、美しさにさらなる広がりが生まれてきますね。
 音楽の世界で「重なる」のは一般的には和声、和音ですね。音を‘同時に重ねる’ことが洋楽の美しいスタイルとすれば、雅楽はこの装束のように‘少しずれて重ねて’多様に拡張していく特徴をもっています。
山本:宗達の書いた「鶴図下絵和歌巻」は、宗達が鶴の絵を描き、その上に当時三筆と言われた本阿弥光悦が和歌を書いています。日本人にとってはごく当たり前ですが、ヨーロッパやアメリカの絵画ではありえない。高階秀爾先生(大原美術館館長)も、中世から近世にかけての絵本や装飾性の強いバイブルでも、絵と文字はくっきりと分かれていて、重なることはありえない、とおっしゃっています。この日本独自の重ねていくフィーリングはどこからきたのでしょうか。私は、これは日本の文化の多重性にあるのではないかと考えています。中国や韓国から次々と伝わってきた文化を受け入れた、日本の美的・観念的な‘柔らかさ’に秘密があるように思います。
東野:シャーマニズムの時代には、音楽は神様への貢ぎ物、捧げものという性格がありました。中国から伝わってきた唐楽は、現在の雅楽を形作っていますが、伝来してから100年、200年経つうちに日本化していきます。中国の理論によって構成されている音楽の骨組みに、日本らしい憂いを帯びさせていくのです。いわば長調の上に短調を乗せてしまうような‘おおらかさ’があるのです。

日本に良質な文化が凝縮した理由
山本:これから先、日本の音楽の最たる古典である雅楽を、どうアピールしていかれるのかお聞かせください。
東野:私自身、洋楽の勉強から始まり、日本の音楽、アジアの音楽と幅ひろく体験してきました。もう一つ、いにしえの音楽をどう現代につなげていくかも活動のテーマとしています。その象徴が今日みなさんに聴いていただいた、この象牙の笙です。正倉院には、象牙の尺八や笛はありますが、象牙の笙はありません。象牙を竹の形に造形する技術は、宮中を含め日本の工芸史ではありえなかったのです。この象牙の笙を作ってくださったのは、過去にトヨタ自動車で2000GTという名車をつくっておられた技術者當野泰伸さんです。車づくりに飽き足らず、さらにものづくりの高みを目指して、この笙の製作に挑まれました。この笙は、素材が希少なだけでなく、音色の精度がとても高く、私はこれを楽器の「F1マシン」と呼んでいるほどです。
山本:日本の技術と笙が結びついたのはすばらしいですね。国際性が高い琳派は、イタリアのフェノロサが再発見したと言われていますが、日本の雅楽も海外の有名な音楽家とコラボして、評価されています。日本人の感性と海外の人の感性という点で、同じ喜びを分かちあえると思いますか。
東野:難しい質問です。洋の東西を問わず古典として残っているものは、普遍の美を湛えていると思っています。クラシックの作曲を勉強すると、三和音のドミソが大切だとたたきこまれます。一方、笙では古来6つの音が重なっています。その構成音である七の和音ドミソシの響きの美しさに気づくには、西洋ではドビュッシーまで待たないといけない。雅楽には1400年前からありましたが、ドビュッシーが出会ったのは150年前。それぐらいの時差があります。ドビュッシーが七の和音に出会ったのはパリ万博だったといわれています。世界がグローバル化していく中で、情報の交流が生まれ、普遍性のある美に出会ったときに、目が利く人や耳が利く人がつかみとっていく、近代における私淑の機会が訪れたのだと思います。
 また、かさなりの美意識を表す音楽は、日本の古代の御神楽(みかぐら)にあります。同じメロディを何度も何度も歌う人が変わりつつ重ねていく。時間の水平軸に沿って重ねていく。瞬時の重なりを楽しむのではなく、意識の重なりや深まりを目的とし、時間をかけて唱えるように繰り返していきます。これと同じことがラヴェルの「ボレロ」にも現れていると気づいたとき、御神楽と同じ精神文化をヨーロッパの人が見いだしたことに驚きました。

芸術の咀嚼と再生を繰り返す

山本:情報化社会で、私たちはあふれんばかりの情報の海に投げこまれています。それは今後の古典の展開に新たな局面を与えると思いますか。
東野:山本さんから、琳派がなしえたことに「トリミング」があると教えていただきましたね。和歌の世界では「本歌取」(ほんかどり)をしますが、あれもトリミングですね。絵画の技術を磨く上で模写をしますが、それもトリミングだと思います。そして、情報を取捨選択する際に、頭の切り替えのみならず、体の記憶として重ねていく。ピアノのレッスンやお茶のお稽古をする時のように、同じ体験を繰り返すことで自分が得た情報を自分なりに意味付け、奥行きを出し、さらに発展させることに役立つと思います。
山本:おっしゃる通りです。模写しながら自分の血肉にしていく。宗達の風神雷神を100年後の光琳が模写し、かつ自分ならではの風神雷神を描いている。200年後、酒井抱一も同じことをしながら、雲の形を彼ならではのものに変えました。琳派が受け継がれたのは、後続の作家が宗達に私淑し、芸術の咀嚼と再生を繰り返してきたことに尽きます。
東野:笙は吹いても吸っても音が出ることが最大の魅力です。呼吸することと音楽をすることが同じで、生きていることがそのまま造形となり、それに美を感じます。その体験を重ねていくことが音楽の存在の意義。その意味で、笙は究極の音楽メディアといえるでしょう。千何百年も続いてきて、いま私がここにいる。私の呼吸によって、さまざまな情報が伝わっていきます。体の記憶として千百年前に誰かが聴いた調べを、現代のみなさまに聴いていただくつもりで演奏しています。

京都からの文化発信にこそ意味がある

山本:先ほど黒坂さんが基調講演で「国際シンポジウムでは文化に触れなかった」とおっしゃったのは重要なポイントだと考えています。現実的には、日本では文化が疲弊しています。情報が画一化し、情報の海で何を選べばいいのか失いつつあります。テレビ界の出身の私がこんなことを言うのは何ですが、テレビは巨大な力をもってローラーのように文化を削いでいきます。
 地域がとても疲弊している時代で、地方の文化が生きていない。そこでいう文化とは、生活であり、用の美であり、しきたり、祭事、おじいさんおばあさんから受け継いだもの、民謡…など。そういうものが私たちの社会を支えています。かろうじて支えて発信できているのが京都と沖縄だと思っています。それだけ押し込められている文化を、どれだけ復権させていけるか。安倍政権は地方創生をうたっていますが、地方がもっている生活文化を復権させていくことが大切です。その意味からも京都の発進力、京都の文化力は重要だと考え、このシンポジウムを京都から発信することに重要な意義を見いだしています。
 ただ、古典のイベントをしても、若い人がきてくれないのが悩みで…。来年、琳派400年のイベントをしますが、21世紀の琳派を生むことを目標にしています。
東野:音楽大学に在学中、最初にコンピュータミュージック、つまり音楽の最先端に注目しました。かたや雅楽の世界も、私には全くもって新しかった。初めて経験するという点で、距離感は同じなのです。直感的に、最も古いものと最も新しいものを重ねてみたかった。「かさね」は私の活動の一つのキーワードです。ただし、重なったものを単にながめているだけではいけない。主体的に重ねようとしてみる心持ちが必要です。文化の醸成には、重ねるための時間と場所、経験をもち、意識をもって主体的に重ね、さらに拡張しようとする姿勢が大切ではないでしょうか。
山本:ありがとうございました。すばらしい結びをしていただきました。
東野:これから私が作曲しました「KASANE」という曲をご披露します。今日、みなさんとご縁と時間が重なったことを一つの喜びとし、この画期的な催しを主催してくださった斎藤ようこさんに捧げたいと思います。


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