info@lavitacorp.co.jp
Women's Global Economy Conference 日中韓女性経済会議
トップ > 05年開催講演録他:特別講演
06年開催講演録他
05年開催講演録他
開催概要
実行委員長挨拶
開催内容
小泉総理メッセージ
開会の挨拶
基調講演
特別講演
第1分科会
第2分科会
第3分科会
第4分科会
交流昼食会
講師プロフィール一覧
協賛・協力・後援
話題
記念写真
04年開催概要他
過去開催の意義と今後
お問い合わせ

特別講演

■『東アジアの文化の多様性』/河合隼雄(文化庁長官)

中国、日本、韓国は欧米からみるとひとくくりにみられています。
一般の日本人は自分の意見をはっきり言わない、と思われているが、父親にはNOというけれど、友人には言わない。韓国人ははっきり意見を言うと考えられているが、友人にはNOといっても、父親には言えない。韓国人は家庭の中では血縁を重視する前近代的な部分が残っていて、日本は血縁の重要性をあまり大事にしなくなってきたのでしょう。中国はもともと血縁を重視していたが、毛沢東がそれを壊そうとした。現在は迷っていて、頼れるのはお金だと思っているようです。

しかし、3国の共通点は「非キリスト教的文化圏」だということ。現代の地球は、キリスト教文化圏の中で発達した科学と技術に制覇されている。科学技術がなぜヨーロッパの近代に出てきたのか。ジョセフ・ニーダムによると、ヨーロッパの科学技術はほとんど中国の方が先に発見していた。発見していたのになぜやらなかったのかというと、方法論がなかったから。「現象」と観察する「自分」を明確に分けて客観的な立場で見る、研究するという方法論を確立したのがヨーロッパだった。

人間とは切り離して「現象」を考えるという方法論の確立によって、科学は初めて絶対的な普遍性をもった。これによって、文化の差をまったく無視して、普遍的に科学を考えられるようになった。それに技術が結びついたことによって、さまざまな商品、サービスが出てきた。その「私」と「現象」を明確に区別するという方法論の背景にあるのは、神と神以外を区別する「一神教」です。それに対して、アジアではつながりを考える「血縁、地縁」が背景にある。「血縁、地縁」を切って、個人という考え方ができた。そういう考え方を背景にした宗教が、今世界で一番力を持っているのです。

日本はアジアの中で最も近代化に成功した国です。それはなぜかということを考えると、日本は血縁よりも「家」=名前(氏)という考え方があったからです。日本は「家」が大事だったので、養子がすごく多い。例えば徳川家300年の歴史をみてもわかる。血縁ばかり大切にしていると、能力があっても登用されないという弊害がある。「家」だと、血のつながりがなくても、能力があれば登用されたわけです。
開国も「日本」という「家」の一大事だった。だから身分や血のつながりを無視して能力主義に徹した。それが明治維新だった。ところが、明治政府が安定したとたん「家」に戻る。そして戦後、日本の「家」は企業になった。

人間はいつか必ず死ぬ。そして人間はそれを知っている。死んでも何か残ると思っていないと生きていけない。自分が死んでも「家」は続くと思うことで安心できた。それが「企業」になった。その中で意見を強くいうと全体が壊れるから、意見も言えない。また、安定すると、能力のある人を取り立てることができなくなる。そこでの「長」の役割は全体を考えることであり、自分の考えでおもしろいことをやることはできない。だからクリエイティビティのない人が「長」になってきた。

自分の能力でやる、起業するのは、女性が多かった。なぜなら、しがらみに入っていなかったから。クリエイティブに生き生きと活動しているのは女性が多い。男性はまだ「家」の中に組み込まれている。
個人主義ということを考えたときに、勝手なことをする人をどうしたらいいのか。自由と身勝手は違う。個人主義はヨーロッパ近代に出てきた考え方で、それまではどこにもなかった、まったく新しい考え方。この個人主義は、キリスト教の倫理観に支えられている。キリスト教は神との契約を基本にしているので、利己主義にはならない。
アジアではどうかというと、支えがないので、若者が勝手なことをする。だから道徳の話をしてみたらいいのではないかと思う。

実は、一神教の世界は非常に簡単なのです。「汝姦淫するなかれ、汝嘘をつくなかれ、汝人を殺すなかれ」と、神が言っている。個人主義というのはヨーロッパ近代に出てきた。それまで、「個人」なんていう考え方は世界中どこにもなかった。世界中どこでもファミリーが大事、家が大事、部族が大事、あるいは部族の長が大事で、その根本には、死んでも何か残るから大丈夫という考えだったわけです。 「個人」という、いまわたしたちは当たり前に思っているが、ものすごく新しい考え方が、ヨーロッパ近代に出てきた。この「個人主義」はキリスト教の倫理観で支えられている。「個人主義」は「利己主義」には絶対ならない。個人主義はキリスト教の倫理を支えにして出てきたので、勝手なこと、利己主義なことをするという人が出てこなかった。

ところが、われわれアジアの国々は、個人主義はいいなあと思ってやりかけたのですが、支えは何か、ということを誰も考えていないのではないか。これはとても大事なことだと思う。例えば、儒教の精神で本当に個人と言えるのだろうか、仏教の精神で個人と言えるのだろうか、道教の精神で言えるのだろうか、韓国はだいぶキリスト教が入ってきているけど、みんなの生活のベースはまだまだ儒教的に生きている。そうすると、アジアの国々で、個人を大事にする倫理というのはどうなっているのか。これは、アジアが、多様性があるなかでも共通の大問題であると思っています。こういう経済の話もいいけれども、一度日中韓で道徳の話をやったらいいと思う。それは昔の道徳にかえろうというのではなくて、これから個人主義で生きるとしたら、いったい何を考えたらいいのかということを考える。そうでないと、若者が勝手なことをする。若者が勝手なことをするというのは、日中韓共通じゃないでしょうか。

それからもうひとつ、日中韓共通に出てきている大きい問題は受験の問題です。受験戦争です。みなさん、日本の「家」はいやだ、しがらみを脱いで個人主義でがんばるのだ、と言っておられても「うちの子だけは」と思った途端に昔風になる。「うちの子は個人で好きなようにしたらええ」となかなか思いにくいですね。いざとなると「うちの子はがんばってほしい」と思うというのは、やはり残っているわけです。

今韓国と日本は文化の交流では随分いろいろなことをやっておりまして、去年日本の映画を韓国に持っていった時に、日本人が普通に生きているときに、どういう風に生きているのか、というのが韓国の人にわかってもらえるような映画だけを持っていった。その中で、15歳の日本の中学生が偏差値とか受験とか、苦労をして自殺したくなったりして乗り越えていく映画を観て、前の韓国文化省の大臣、映画監督のイ・チャンドンさんに、「どうですか、日本の中学生はこんなに苦労してるんですよ」といったら、イ・チャンドンが「こんなの問題外ですよ。韓国の中学生はもっと苦労してますよ」と。韓国の中学生の偏差値とか試験はもっと大変なんですね。中国でもこの頃、お金持ちの家になるほど子どもの試験が大変になってきている。
ところが、ヨーロッパやアメリカはなっていない。そもそも個人主義の始まりで、大学も先につくって入試もやっているけど、大受験戦争は起こっていない。これはなぜかといったら、血縁、地縁を切ったキリスト教というのがある限り、あちらの親は自分の子供であっても、勉強ができなくても自分の好きな道を行ったらいいじゃないかと思っている。

アジアでは「うちの子は絶対できるはずや」と思っているわけです。「血がつながっている限り、絶対大丈夫と思いたい」とか、「血がつながっているこの子が東大に入れないわけはない」とか、勝手に思うというところが、全然ヨーロッパやアメリカと違う。そのため、ものすごい受験戦争が中国でも韓国でも日本でも起こっています。こういうことを我々はどう考えたらいいいか、どうしたらいいか、ということも、個人主義の倫理とつながってくると思いますが、そういうことも共同で研究したらいいと思っています。

わたしの話はあんまり、あんまりどころか全然くらい経済には関係ない話ですが、皆さんが経済の問題を考えておられる底の底の方に、こういうことはありますよ、ということをお考えくださったらありがたいと思います。ちょうど時間がきましたので、これで終わりにします。ありがとうございました。

▲上へ戻る